ながいひとりごと

主に映画の感想を書きます。

境界の攪乱と『アラビアのロレンス』


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アラビアのロレンス』において、「境界」を超えようとすること、攪乱しようとすることは全体を貫いており、そこには複数の要素を読み取れる。

主人公ロレンスはイギリス人であるが、"アラブ人"あるいは、どちらでもない超越した存在に成ろうとする。作中、イギリス人とアラブ人の間には明確に境界があるものとされる。その境界の引き方は、現在から見ると差別的な認識も含むのだが、ここではその境界がひとまずあるものとする。ロレンスはイギリス人たちの間でどこか異質であることが示されるし、タファスとの会話の中で自分は「違っている、異なっている」のだと言う。その後、ロレンスは彼はアラブ人たちの信頼を得て、彼らの服を身に着けるようになり、姿も砂にまみれ、”アラブ人”の性質に近づいていくことが示される。一方、アラブ人側とは異なると告げられたり言及されたりもする。ロレンス自身も、殺しを楽しんでいた自分に気がつくことに始まり、何らかの異質性を徐々に自覚していく。つまり、ロレンスはイギリス人と"アラブ人"の間にある「境界」を超えようと、あるいは攪乱していこうとする。これが物語の中心になっている。

その中で重要な役割を果たすのがアリだ。アリが登場するシーンは有名で、蜃気楼の中からアリは現れるのだが、この時彼が地平線という「境界」上からやってくるようにも見える。つまりアリは「境界」に関わる重要人物であることが、登場時点から示されているのだ。

のちにアカバへ向かうことについて、ロレンスとアリは言い争いになる。二人の間には柱が配置され、「境界」があることが示される。言い争いの中、ロレンスが柱を掴むこともどこか示唆的だ。しかし二人は柱を離れ、最終的にロレンスがアカバの方向を指し示すときには、二人の間に「境界」はなく、二人は同じ方向を向いているのだ。これは、二人の絆が深まっていくというそれ以後の展開を予告するものだといえるし、「境界」にアリが関わることを改めて示すものだろう。

そして何よりも、アリはロレンスのイギリス軍服を燃やして代わりに白い装束を渡し、ロレンスがイギリス人から"アラブ人"になること、つまりロレンスが「境界」を超えたことを決定づけるのだ。

あるいは、これはロレンスがどちらでもない存在だという意味で「境界」について示しているのかもしれない。軍服が燃やされる直前のシーンでは、ロレンスが自身が非嫡出子であることを明かす。それに対しアリは、(ロレンスは)好きな名前を選べる、エル・オレンスが一番だと言う。これらの発言から、アリは属性に依らないロレンス個人のことを見ている人物なのだとわかる。

ロレンスとアリの二人に関わる「境界」はこれだけではない。ロレンスとアリの間の関係はクィアなものだと読める指摘されることもある。イギリス人と"アラブ人"の「境界を攪乱する」ことが物語の中心に存在し、ロレンスとアリの関係がそれに関わるのならば、その関係はクィアであると読み取るのも自然だと言えるのではないか。そうすると、終盤にアウダがアリに対し、「彼(ロレンス)を愛しているんだな(you love him)」と言う愛にも、友情と恋愛の「境界」がぼやけたものが含まれていてもおかしくない。なお、監督デヴィッド・リーンは『アラビアのロレンス』が同性愛的であるという示唆について次のように述べている。

はい。 もちろん。 全体を通して。 かつて、私たちの中で最も屈強なアラブ人野郎たちと一緒に砂漠に立ったときのことは決して忘れないでしょう。そして突然、「彼は私に色目を使っている!」と思いました。 そして彼はそうしていました! したがって、それは物語全体に浸透しており、確かにローレンスは、完全ではないにしても、非常に同性愛的でした。 ローレンスとオマー(訳注:アリを演じたオマー・シャリフ、ローレンスとアラブ男性たち、当時私たちはとても大胆なことをしていると思っていました。

ロレンスとアリの関係自体以外にも、この映画についてはクィアな要素が指摘されることがある。例えばロレンスの話し方をはじめとしたふるまい、捕らえたトルコの列車の上で踊るような動きを見せるシーンなどにゲイのステレオタイプが指摘される。これらの要素はそもそものロレンスの「境界」を攪乱させようとする試みとマッチしているといえるだろう。

ロレンスの望みは結局のところ果たされず、彼はアラビアを去り故郷に帰っていく。しかしこれほどの大作の主人公に「境界」を攪乱したり超越しようとする性質が付与されていると読み取れるのは重大なことであるし、この作品が古典的名作になっている理由のひとつかもしれない。

 

2023/07/05一部追記