何があっても私は私『ARGYLLE/アーガイル』
『ARGYLLE/アーガイル』は展開の二転三転する目まぐるしい映画であり、その中で主人公の小説家エリーの”正体”が次々と明かされていく。結局のところ、主人公の正体は何だったと言えるのか、それこそがこの映画を特徴づけている。
主人公は元々小説家エリーだったのではなく、記憶を失ったCIA工作員のレイチェルだった。しかもレイチェルは悪の組織ディヴィジョンの二重スパイをしていたが、記憶を失う直前、ディヴィジョンを裏切っていた。
こうした展開を見ていくと、では最終的な主人公は、過去場面でその姿を見せたり、エイダンなど過去を知る人物が語ったりするレイチェルとほぼ同じ人物像に戻るのかと思わされる。つまり、落ち着いて冷酷で猫好きではない人物に……しかし実際はそうではない。
彼女はディヴィジョンのヴォグラーとリッターを前に啖呵を切って見せ、彼らを昏倒させる。しかし二人が気を失うと、慌てた様子で部屋を後にする。それはエリーが列車の中でおびえていた様子といまだ重なるところがある。そしてリッターの前で彼女は飼い猫のアルフィーをもう気にしないかのように振舞っていたが、アルフィーを迎えに行き心から心配している様子を見せる。それでいて、彼女はエイダンと共に、ディヴィジョンの人間たちを撃退するようなスパイの身体的強さを取り戻してもいる。彼女はエリーの特徴とレイチェルの特徴どちらも兼ね備えているのだ。
エリーの人格は洗脳から生まれたものであって、彼女が元々望んだものではなかったかもしれない。偽物と呼べるのかもしれない。しかし彼女はそれを自分の一つの経験、自分の一面として受け入れて、それでいて生き生きとしているのである。
そのことを最も象徴しているのは、エリー/レイチェルが、床一面オイルでまみれた部屋をスケートの要領で滑り出そうとする場面である。エリーはスケート事故でケガを負ったということになっていた。彼女はエイダンに、スケートをやっていたのは(レイチェルとしても)本当だったのかと尋ね、彼はそうだと認める。それに続く、エリーとレイチェルの共通点であるスケートを生かしたアクション場面は、この映画の中で一番パワフルで華やかだと言ってもよい。
人間はずっと同じではいられない。思わぬ経験をすることもあるかもしれないーーずっと”凄腕スパイ”ではいられないかもしれないし、”小説家”でいることが気に入っても、それだけではいられないかもしれない。そんな時『ARGYLLE/アーガイル』は勇気を与えてくれる。スパイであっても、小説家であっても、猫派でも犬派でも、名前がエリーであってもレイチェルであっても、ただひとつ変わらないのは主人公のその人物が、彼女自身だということである。『ARGYLLE/アーガイル』はその目まぐるしい展開の中に、自己同一性の力強さを描いている。
有害な男らしさと『フォールガイ』
主人公コルトは業界一のスタントマンであるが、高所からの落下スタントの事故で大怪我をしたことで、スタント業から離れていた。
しかし、映画プロデューサーのゲイルに、疎遠となってしまった元恋人のジョディの監督作のスタントマンを務めてほしいと頼まれたことで、復帰することになる。
コルトはジョディの復縁を期待して撮影現場に向かうが、ジョディの態度はつれなく、そうはいかなかった。
車内でコルトが音楽を聴き涙を流す場面、彼は二人の過去を回想している。回想の中、ジョディが座った位置が”上昇”していくのは象徴的だ。二人はクルー同士の立場だったが、コルトが業界から離れている間にジョディはカメラオペレーターから”出世”し、監督になり、現場のリーダー的立場となった(コルトはジョディのことを”ボス”と呼ぶ場面もある)。コルトが落下したのとは対照的に、ジョディは上昇していたのである。
ジョディは優秀な監督として描かれている。彼女は次々やってくるスタッフらの提案に的確に指示を出していき、部下をひどく罵る者がいれば、敬意をもって接するよう諭す。まくし立てるように話すこともあるが、それは威圧的ではなく、創作意欲に富んでアイディアが止まらないかのように表現されている。現実に、ハリウッドの大作映画に女性監督は少ないが、そんな男性中心業界を舞台にした中、ジョディは伝統的な男らしさとはやや異なった特徴を持ちながらも出世している(あるいはしかかっている)人物として表現されている。
そんなジョディがコルトと車内で二人きりで話す場面*1、彼女はスタントの合図、サムズアップに嫌悪感を示す。
彼女のその言葉にコルトが真に応えるのは、追手から逃げつつボート上でジョディに電話をかける場面である。
コルトは、本当は火だるまになったりする数々のスタントは、本当は痛かったのだと語る。それはあの撮影現場でのスタントを何回も試みることーージョディと復縁したいという思いが届かないことに、彼は傷ついていたのだと認める。つまりサムズアップの通り大丈夫、ではなかったことをジョディと共有する。そのせりふをコルトは自画自賛、つまり自分自身でもそれを受容し、彼は傷つきうる存在であると示される。
その後すぐに追手が迫りボートは爆破される。しかし海に飛び込んだコルトは生き延びており、陸に上がった時には今まで着ていたジャケットを捨て、タンクトップに筋骨隆々な姿を現す。それは伝統的なマッチョな男らしさのイメージと被るのだが、自らの可傷性を認めたコルトのその内はやや異なるものである。
コルトとジョディの二人と対照的なのが、悪役ともいえるトムとゲイルの二人である。大スター俳優であるトムは自らをグローバルブランドだと語る。彼のスタントはコルトによるものであるのに、自分でそのスタントをこなしていると嘘をつき、力強さや万能性を誇示しようとした勢いで自らの側近を殺害してしまうのである。虚構の力強さにすがるトムはまさに有害な男らしさを象徴しているといえる。
トムが他の人を蹴落としてまで地位を守ろうとしているのと、コルトの姿勢は対照的でもある。コルトは自分が失意の間にジョディが昇格していても、そのこと自体は受け入れることができるのだ。そしてスタントコーディネーターのダンやアシスタントのアルマなど様々な人と助け合う様子は対照的である。
ゲイルがジョディに追い詰められ逃げようとする場面、彼女はジョディは「有害な男らしさ」に満ちた業界でともにやってきたと認めつつ、ジョディは扱いやすいから監督にしたのだと、踏み台としてしか考えていなかったことを明かす。ゲイルがコルトに濡れ衣を着せたのは、単に映画を成功させたいということにとどまらず、有害な男らしさを否定するふりをしながらも、結局のところそれに固執していたからだったのである。
伝統的な男らしさとは異なった特徴を持ったコルトとジョディの二人がハッピーエンディングを迎える。一方で映画の一番最後、その男らしさを濫用した有害な男らしさの象徴であるトムは爆発によって吹き飛ばされ跡形もなく消え去る。
ゲイルは映画は、セクシーなベーコンにメッセージを包んでいると語った。『フォールガイ』のアクションやロマンスといったベーコンに包まれたメッセージのひとつは、有害な男らしさを映画業界から吹き飛ばすことだったのではないだろうか。
*1:
この直前で、コルトが聴く音楽が、女性アーティストであるテイラー・スウィフトの”All Too Well”だったというのも興味深い。
コルトが好んで聴いたこの曲と、ジョディがカラオケの場面で歌う曲を比較してみたい。
コルトが自分に何も言わず姿を消した傷心のジョディがカラオケで歌うのは、男性アーティストのフィル・コリンズの”Against All Odds (Take a Look at Me Now)”だった。
『フォールガイ』のテーマソングともいえる曲はオープニングをはじめ繰り返し流れるKISSの楽曲I Was Made For Lovin' Youであり、どちらかといえばジョディの選曲に近いといえるのだった。
天使と悪魔ではなく、人間の物語『グッド・オーメンズ』シーズン1、シーズン2
『グッド・オーメンズ』は天使アジラフェルと悪魔クロウリーを主人公とした物語だ。しかし、『グッド・オーメンズ』は人間についての物語だといえる。それは、人間のキャラクターが登場するからというより、アジラフェルとクロウリーがただの天使と悪魔ではないからである。
彼らにはモデルとなった実際の聖書中の存在がいる。アジラフェルは旧約聖書の創世記第三章中に登場する、エデンの園の東に置かれた「きらめく剣の炎とケルビム」である。これは神がアダムとエバを追放した後、罪のあるまま永遠の命を得ないよう、命の木への道を守らせるために置いた。アジラフェルが炎の剣を持ってエデンの園の東を守っていたことから、この存在が彼のモデルであることがわかる。
一方、クロウリーのモデルは同じく旧約聖書の創世記第三章中に登場し、アダムとエバを誘惑した「蛇」である。これは『グッド・オーメンズ』劇中でもはっきり示され、明らかである。
「蛇」により人間は原罪を犯したわけであり、それに対応するといえる存在が「きらめく剣の炎とケルビム」なのである。つまり「蛇」と「きらめく剣の炎とケルビム」は人間を介して対極といえる存在である。それはアジラフェルとクロウリーは対極の存在であることを示しているのだ。
『グッド・オーメンズ』はラブストーリーであると原作者の一人のニール・ゲイマンは発言した。そして、二人の間に愛があることは、シーズン2のラストでほかの解釈の余地なく表現された。つまり、その愛は「きらめく剣の炎とケルビム」と「蛇」の間の愛というとんでもないものであり、その二者を介する人間という存在をその罪ごと愛し、肯定しているといえるのだ。
『グッド・オーメンズ』シーズン2を通し、アジラフェルとクロウリーの間には様々な違いがありながらも絆があることが描かれた。シーズン2のラストでは、二人は互いの間に愛があることを自覚するが、考え方の違いが致命的なものとなり、別々の道を歩むことになる。アジラフェルは天国を改革すれば二人は一緒にいられるのだと言い、クロウリーは天国も地獄も有害であり、そこから逃げ出すべきだと言う。いずれにせよ、現状のままでは二人の愛は彼らの属する天国と地獄というシステムによって脅かされるのだ。
アジラフェルとクロウリーの愛が脅かされるということは、人間が脅かされるということである。二人の間の対立は、人間はその属するシステム――あるいは社会――が自身を脅かすとき、その場に留まって現状を変えることを試みるべきか、あるいはそこから逃げ出すべきか、という問いと重ね合わせることもできるのではないだろうか。
実際のところ、その問いに唯一の正しい答えはない。そして同様に、アジラフェルとクロウリーについても、どちらが正しいと判断することは難しい。天国が変革し得るとは考え難いし、かといって(おそらく)Alpha Centauriのような場所に逃げたとして、地球で人間たちとともに六千年ものあいだ暮らしてきた二人がやっていけるのか。留まるべきか逃げるべきか、それとも別のグレーゾーンな可能性はあるのか? シーズン3で描かれるであろう『グッド・オーメンズ』なりの答えを楽しみに待ちたい。
ままならない身体と力強いラストシーン『バービー』
映画『バービー』は有名な人形である「バービー」たちのひとりが自身の暮らす「バービーランド」を飛び出し、人間界へとやってくる物語である。主人公の「典型的バービー」(以下バービー)は複数の面における人間の女性の身体のままならなさに遭遇する。そんな中、ラストシーンはそのままならなさについて力強いメッセージを示していると読み取れる。
初めて人間界にやってきて、ケンと共に海岸をローラースケーティングしているバービーは、人間の男性たちから暴力的な視線で見られたり、性的に揶揄うような言葉をかけられたりする。そこでバービーは人間の女性の身体が暴力的なものにさらされていることを知る。
これはグロリアが女性の置かれている状況について語るシーン、そしてケンたちとの対峙に繋がっていくが、もう一つ繋がりがあるのは、バービーが人間界に来たきっかけである。
バービーは足が平らになった(=ハイヒールを履いたままのようなつま先立ちが保てなくなった)り、死について考えるようになったり、セルライトができたり、という自身(の身体)に起きた異変に対して不安になり、異変を解決しようと人間界にやってくる。のちに、これらの異変は、人間の女性グロリアが描いた死について考えるバービーなどの絵が作用した結果ということが判明する。そしてこれらの異変=変化は、年齢を重ねれば人間の女性(女性に限らないが)に自然と起こり得ることだ。バービーはグロリアの描いた絵という自分にはコントロールできない力によって、時の流れという同じくコントロールできないことにより人間の女性に起こる変化を知るのだ。
こうして、バービーは人間の女性の身体について外側からやってくるままならない事象、そして身体自体に起こる変化というままならない事象を体験した。外側からの視線については、ケンたちからバービーランドを取り戻す過程の中に変化の兆しが見えている。しかし、身体自身に起こる変化についてはどうか?
バービーは生みの親であるルースとの出会いを経て、人形から人間になる。ラストシーンでは、彼女はそれまでと異なるかしこまった服装をしており、グロリアたちに応援されている様子から、まるで仕事の面接か何かに行くのかと思わせる。しかしバービーはビルの受付に行き“I’m here to see my gynecologist.(婦人科を受診しに来ました)”と言うのだ。
この台詞は驚きや笑いを誘うと同時に、自分の身体を自分のものとする、という力強いメッセージを示している。身体は様々に変化するかもしれないし、それに不安を感じることもあるかもしれない。しかしその時に医療にかかる、つまり自分の身体をケアすることは、自分の身体に何が起きているのかを知り、前向きに向き合っていく行為だ。こうして『バービー』は、自然な変化による身体のままならなさに対しても、自分の身体を自分のものとする方法はある、と私たちに伝えているのだ。
『逢びき』と『別れる決心』に見られる絶妙なズレ
『逢びき』はいくつかの「ズレ」ともいえる性質を持ち合わせている。劇中では、各々の家へと帰るため、アレックの乗る列車とクレアの乗る列車の発車時刻には数分の「ズレ」があるというのが代表的だ。
作品の構成としては、二人の最後の別れの時が冒頭に示され、観客は最後の最後にその意味を知ることになるという「ズレ」がある。
それらの中で、小さいながらも二人の関係を決定づけているのが、アレックがクレアに自身の医師としての理想を話すシーンだ。クレアが「あなたが突然若く見えた」と言い、アレックを初めてうっとり見つめるのが、彼が理想そのものというより炭鉱について話し出したときである、という「ズレ」がある。この瞬間にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れるというのも、この瞬間が重要であることを示している。その後もアレックは炭塵について説明し、クレアはそれを見つめている。二人の恋が本当に始まったといえる瞬間なのに、話す内容はロマンチックさに欠けているところに面白味があるのではないだろうか。
一方、『別れる決心』の雰囲気は『逢びき』を参考にしているという。たしかに二作品は設定からして似通っている。しかしその雰囲気の面で『別れる決心』が『逢びき』と決定的に「ズレ」ている点がある。それは『別れる決心』は二人の関係が笑うことに始まり笑うことに終わるという点だ。ヘジュンとソレは取調室で初めて出会ったとき、その場にそぐわないタイミングで笑いあう。そして最後の別れのときも笑うシーンがある。悲しいストーリーであるはずなのに、この笑いが象徴的に使われているという「ズレ」が作品を独特なものに決定づけているのだ。
境界の攪乱と『アラビアのロレンス』
『アラビアのロレンス』において、「境界」を超えようとすること、攪乱しようとすることは全体を貫いており、そこには複数の要素を読み取れる。
主人公ロレンスはイギリス人であるが、"アラブ人"あるいは、どちらでもない超越した存在に成ろうとする。作中、イギリス人とアラブ人の間には明確に境界があるものとされる。その境界の引き方は、現在から見ると差別的な認識も含むのだが、ここではその境界がひとまずあるものとする。ロレンスはイギリス人たちの間でどこか異質であることが示されるし、タファスとの会話の中で自分は「違っている、異なっている」のだと言う。その後、ロレンスは彼はアラブ人たちの信頼を得て、彼らの服を身に着けるようになり、姿も砂にまみれ、”アラブ人”の性質に近づいていくことが示される。一方、アラブ人側とは異なると告げられたり言及されたりもする。ロレンス自身も、殺しを楽しんでいた自分に気がつくことに始まり、何らかの異質性を徐々に自覚していく。つまり、ロレンスはイギリス人と"アラブ人"の間にある「境界」を超えようと、あるいは攪乱していこうとする。これが物語の中心になっている。
その中で重要な役割を果たすのがアリだ。アリが登場するシーンは有名で、蜃気楼の中からアリは現れるのだが、この時彼が地平線という「境界」上からやってくるようにも見える。つまりアリは「境界」に関わる重要人物であることが、登場時点から示されているのだ。
のちにアカバへ向かうことについて、ロレンスとアリは言い争いになる。二人の間には柱が配置され、「境界」があることが示される。言い争いの中、ロレンスが柱を掴むこともどこか示唆的だ。しかし二人は柱を離れ、最終的にロレンスがアカバの方向を指し示すときには、二人の間に「境界」はなく、二人は同じ方向を向いているのだ。これは、二人の絆が深まっていくというそれ以後の展開を予告するものだといえるし、「境界」にアリが関わることを改めて示すものだろう。
そして何よりも、アリはロレンスのイギリス軍服を燃やして代わりに白い装束を渡し、ロレンスがイギリス人から"アラブ人"になること、つまりロレンスが「境界」を超えたことを決定づけるのだ。
あるいは、これはロレンスがどちらでもない存在だという意味で「境界」について示しているのかもしれない。軍服が燃やされる直前のシーンでは、ロレンスが自身が非嫡出子であることを明かす。それに対しアリは、(ロレンスは)好きな名前を選べる、エル・オレンスが一番だと言う。これらの発言から、アリは属性に依らないロレンス個人のことを見ている人物なのだとわかる。
ロレンスとアリの二人に関わる「境界」はこれだけではない。ロレンスとアリの間の関係はクィアなものだと読める指摘されることもある。イギリス人と"アラブ人"の「境界を攪乱する」ことが物語の中心に存在し、ロレンスとアリの関係がそれに関わるのならば、その関係はクィアであると読み取るのも自然だと言えるのではないか。そうすると、終盤にアウダがアリに対し、「彼(ロレンス)を愛しているんだな(you love him)」と言う愛にも、友情と恋愛の「境界」がぼやけたものが含まれていてもおかしくない。なお、監督デヴィッド・リーンは『アラビアのロレンス』が同性愛的であるという示唆について次のように述べている。
はい。 もちろん。 全体を通して。 かつて、私たちの中で最も屈強なアラブ人野郎たちと一緒に砂漠に立ったときのことは決して忘れないでしょう。そして突然、「彼は私に色目を使っている!」と思いました。 そして彼はそうしていました! したがって、それは物語全体に浸透しており、確かにローレンスは、完全ではないにしても、非常に同性愛的でした。 ローレンスとオマー(訳注:アリを演じたオマー・シャリフ)、ローレンスとアラブ男性たち、当時私たちはとても大胆なことをしていると思っていました。
ロレンスとアリの関係自体以外にも、この映画についてはクィアな要素が指摘されることがある。例えばロレンスの話し方をはじめとしたふるまい、捕らえたトルコの列車の上で踊るような動きを見せるシーンなどにゲイのステレオタイプが指摘される。これらの要素はそもそものロレンスの「境界」を攪乱させようとする試みとマッチしているといえるだろう。
ロレンスの望みは結局のところ果たされず、彼はアラビアを去り故郷に帰っていく。しかしこれほどの大作の主人公に「境界」を攪乱したり超越しようとする性質が付与されていると読み取れるのは重大なことであるし、この作品が古典的名作になっている理由のひとつかもしれない。
2023/07/05一部追記
落ち着いているように見えて実はスポ根?『ケイコ 目を澄ませて』
『ケイコ 目を澄ませて』は終始落ち着いたトーンで語られる映画だ。しかし、中心となる部分は熱血的なものであるように思う。
中盤、主人公ケイコはボクシングを一度休みたいという思いを抱えつつも、それを所属するジムの会長に打ち明けることができない。同居している弟に胸の内を話してみるよう促されるも、話しても解決しないのだと言う。そもそも、ケイコはなぜボクシングをするのかを明確には語らない。結局、ケイコのボクシングを辞めたいというもやもやした気持ちの正体は明らかにはされない。
そんな中、ケイコはジムの会長が自分の試合のビデオを熱心に見ている姿や、共に練習をすることで、再度試合に出てみようと決断し、再び熱心にトレーニングに励むようになる。
この作品は、主人公ケイコを距離感をもって淡々としたトーンで描きながらも、結局のところ主人公が苦難を抱えながら(それは彼女の持つ聴覚障害がボクシングには不利であることかもしれないし、所属ジムが閉鎖間近であること、など複合的で、正体は不明だ)、根性や努力で試合勝利を目指すという展開を持つ。さらにケイコの心情が曖昧な表現にとどまり、周囲の人に頼る描写もない中、明快なのは彼女が「努力して勝利を目指す」ことだというのもあり、この作品にはいわゆるスポ根に近しいものがあるのではないか。
最終的に彼女は試合に敗れるので、このストーリーをスポ根的展開とは呼べないかもしれない。しかし、16mmフィルムで撮られた映像や、歴史あるジムが舞台であることも、落ち着きというよりはスポ根の「古き良き」点を強調しているように見える。