ながいひとりごと

主に映画の感想を書きます。

天使と悪魔ではなく、人間の物語『グッド・オーメンズ』シーズン1、シーズン2


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『グッド・オーメンズ』は天使アジラフェルと悪魔クロウリーを主人公とした物語だ。しかし、『グッド・オーメンズ』は人間についての物語だといえる。それは、人間のキャラクターが登場するからというより、アジラフェルとクロウリーがただの天使と悪魔ではないからである。

彼らにはモデルとなった実際の聖書中の存在がいる。アジラフェルは旧約聖書の創世記第三章中に登場する、エデンの園の東に置かれた「きらめく剣の炎とケルビム」である。これは神がアダムとエバを追放した後、罪のあるまま永遠の命を得ないよう、命の木への道を守らせるために置いた。アジラフェルが炎の剣を持ってエデンの園の東を守っていたことから、この存在が彼のモデルであることがわかる。

一方、クロウリーのモデルは同じく旧約聖書の創世記第三章中に登場し、アダムとエバを誘惑した「蛇」である。これは『グッド・オーメンズ』劇中でもはっきり示され、明らかである。

「蛇」により人間は原罪を犯したわけであり、それに対応するといえる存在が「きらめく剣の炎とケルビム」なのである。つまり「蛇」と「きらめく剣の炎とケルビム」は人間を介して対極といえる存在である。それはアジラフェルとクロウリーは対極の存在であることを示しているのだ。

『グッド・オーメンズ』はラブストーリーであると原作者の一人のニール・ゲイマンは発言した。そして、二人の間に愛があることは、シーズン2のラストでほかの解釈の余地なく表現された。つまり、その愛は「きらめく剣の炎とケルビム」と「蛇」の間の愛というとんでもないものであり、その二者を介する人間という存在をその罪ごと愛し、肯定しているといえるのだ。

 

『グッド・オーメンズ』シーズン2を通し、アジラフェルとクロウリーの間には様々な違いがありながらも絆があることが描かれた。シーズン2のラストでは、二人は互いの間に愛があることを自覚するが、考え方の違いが致命的なものとなり、別々の道を歩むことになる。アジラフェルは天国を改革すれば二人は一緒にいられるのだと言い、クロウリーは天国も地獄も有害であり、そこから逃げ出すべきだと言う。いずれにせよ、現状のままでは二人の愛は彼らの属する天国と地獄というシステムによって脅かされるのだ。

アジラフェルとクロウリーの愛が脅かされるということは、人間が脅かされるということである。二人の間の対立は、人間はその属するシステム――あるいは社会――が自身を脅かすとき、その場に留まって現状を変えることを試みるべきか、あるいはそこから逃げ出すべきか、という問いと重ね合わせることもできるのではないだろうか。

実際のところ、その問いに唯一の正しい答えはない。そして同様に、アジラフェルとクロウリーについても、どちらが正しいと判断することは難しい。天国が変革し得るとは考え難いし、かといって(おそらく)Alpha Centauriのような場所に逃げたとして、地球で人間たちとともに六千年ものあいだ暮らしてきた二人がやっていけるのか。留まるべきか逃げるべきか、それとも別のグレーゾーンな可能性はあるのか? シーズン3で描かれるであろう『グッド・オーメンズ』なりの答えを楽しみに待ちたい。

ままならない身体と力強いラストシーン『バービー』


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映画『バービー』は有名な人形である「バービー」たちのひとりが自身の暮らす「バービーランド」を飛び出し、人間界へとやってくる物語である。主人公の「典型的バービー」(以下バービー)は複数の面における人間の女性の身体のままならなさに遭遇する。そんな中、ラストシーンはそのままならなさについて力強いメッセージを示していると読み取れる。

 

初めて人間界にやってきて、ケンと共に海岸をローラースケーティングしているバービーは、人間の男性たちから暴力的な視線で見られたり、性的に揶揄うような言葉をかけられたりする。そこでバービーは人間の女性の身体が暴力的なものにさらされていることを知る。

これはグロリアが女性の置かれている状況について語るシーン、そしてケンたちとの対峙に繋がっていくが、もう一つ繋がりがあるのは、バービーが人間界に来たきっかけである。

バービーは足が平らになった(=ハイヒールを履いたままのようなつま先立ちが保てなくなった)り、死について考えるようになったり、セルライトができたり、という自身(の身体)に起きた異変に対して不安になり、異変を解決しようと人間界にやってくる。のちに、これらの異変は、人間の女性グロリアが描いた死について考えるバービーなどの絵が作用した結果ということが判明する。そしてこれらの異変=変化は、年齢を重ねれば人間の女性(女性に限らないが)に自然と起こり得ることだ。バービーはグロリアの描いた絵という自分にはコントロールできない力によって、時の流れという同じくコントロールできないことにより人間の女性に起こる変化を知るのだ。

こうして、バービーは人間の女性の身体について外側からやってくるままならない事象、そして身体自体に起こる変化というままならない事象を体験した。外側からの視線については、ケンたちからバービーランドを取り戻す過程の中に変化の兆しが見えている。しかし、身体自身に起こる変化についてはどうか?

バービーは生みの親であるルースとの出会いを経て、人形から人間になる。ラストシーンでは、彼女はそれまでと異なるかしこまった服装をしており、グロリアたちに応援されている様子から、まるで仕事の面接か何かに行くのかと思わせる。しかしバービーはビルの受付に行き“I’m here to see my gynecologist.(婦人科を受診しに来ました)”と言うのだ。

この台詞は驚きや笑いを誘うと同時に、自分の身体を自分のものとする、という力強いメッセージを示している。身体は様々に変化するかもしれないし、それに不安を感じることもあるかもしれない。しかしその時に医療にかかる、つまり自分の身体をケアすることは、自分の身体に何が起きているのかを知り、前向きに向き合っていく行為だ。こうして『バービー』は、自然な変化による身体のままならなさに対しても、自分の身体を自分のものとする方法はある、と私たちに伝えているのだ。

『逢びき』と『別れる決心』に見られる絶妙なズレ


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『逢びき』はいくつかの「ズレ」ともいえる性質を持ち合わせている。劇中では、各々の家へと帰るため、アレックの乗る列車とクレアの乗る列車の発車時刻には数分の「ズレ」があるというのが代表的だ。

作品の構成としては、二人の最後の別れの時が冒頭に示され、観客は最後の最後にその意味を知ることになるという「ズレ」がある。

それらの中で、小さいながらも二人の関係を決定づけているのが、アレックがクレアに自身の医師としての理想を話すシーンだ。クレアが「あなたが突然若く見えた」と言い、アレックを初めてうっとり見つめるのが、彼が理想そのものというより炭鉱について話し出したときである、という「ズレ」がある。この瞬間にラフマニノフピアノ協奏曲第2番が流れるというのも、この瞬間が重要であることを示している。その後もアレックは炭塵について説明し、クレアはそれを見つめている。二人の恋が本当に始まったといえる瞬間なのに、話す内容はロマンチックさに欠けているところに面白味があるのではないだろうか。

 

一方、『別れる決心』の雰囲気は『逢びき』を参考にしているという。たしかに二作品は設定からして似通っている。しかしその雰囲気の面で『別れる決心』が『逢びき』と決定的に「ズレ」ている点がある。それは『別れる決心』は二人の関係が笑うことに始まり笑うことに終わるという点だ。ヘジュンとソレは取調室で初めて出会ったとき、その場にそぐわないタイミングで笑いあう。そして最後の別れのときも笑うシーンがある。悲しいストーリーであるはずなのに、この笑いが象徴的に使われているという「ズレ」が作品を独特なものに決定づけているのだ。

境界の攪乱と『アラビアのロレンス』


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アラビアのロレンス』において、「境界」を超えようとすること、攪乱しようとすることは全体を貫いており、そこには複数の要素を読み取れる。

主人公ロレンスはイギリス人であるが、"アラブ人"あるいは、どちらでもない超越した存在に成ろうとする。作中、イギリス人とアラブ人の間には明確に境界があるものとされる。その境界の引き方は、現在から見ると差別的な認識も含むのだが、ここではその境界がひとまずあるものとする。ロレンスはイギリス人たちの間でどこか異質であることが示されるし、タファスとの会話の中で自分は「違っている、異なっている」のだと言う。その後、ロレンスは彼はアラブ人たちの信頼を得て、彼らの服を身に着けるようになり、姿も砂にまみれ、”アラブ人”の性質に近づいていくことが示される。一方、アラブ人側とは異なると告げられたり言及されたりもする。ロレンス自身も、殺しを楽しんでいた自分に気がつくことに始まり、何らかの異質性を徐々に自覚していく。つまり、ロレンスはイギリス人と"アラブ人"の間にある「境界」を超えようと、あるいは攪乱していこうとする。これが物語の中心になっている。

その中で重要な役割を果たすのがアリだ。アリが登場するシーンは有名で、蜃気楼の中からアリは現れるのだが、この時彼が地平線という「境界」上からやってくるようにも見える。つまりアリは「境界」に関わる重要人物であることが、登場時点から示されているのだ。

のちにアカバへ向かうことについて、ロレンスとアリは言い争いになる。二人の間には柱が配置され、「境界」があることが示される。言い争いの中、ロレンスが柱を掴むこともどこか示唆的だ。しかし二人は柱を離れ、最終的にロレンスがアカバの方向を指し示すときには、二人の間に「境界」はなく、二人は同じ方向を向いているのだ。これは、二人の絆が深まっていくというそれ以後の展開を予告するものだといえるし、「境界」にアリが関わることを改めて示すものだろう。

そして何よりも、アリはロレンスのイギリス軍服を燃やして代わりに白い装束を渡し、ロレンスがイギリス人から"アラブ人"になること、つまりロレンスが「境界」を超えたことを決定づけるのだ。

あるいは、これはロレンスがどちらでもない存在だという意味で「境界」について示しているのかもしれない。軍服が燃やされる直前のシーンでは、ロレンスが自身が非嫡出子であることを明かす。それに対しアリは、(ロレンスは)好きな名前を選べる、エル・オレンスが一番だと言う。これらの発言から、アリは属性に依らないロレンス個人のことを見ている人物なのだとわかる。

ロレンスとアリの二人に関わる「境界」はこれだけではない。ロレンスとアリの間の関係はクィアなものだと読める指摘されることもある。イギリス人と"アラブ人"の「境界を攪乱する」ことが物語の中心に存在し、ロレンスとアリの関係がそれに関わるのならば、その関係はクィアであると読み取るのも自然だと言えるのではないか。そうすると、終盤にアウダがアリに対し、「彼(ロレンス)を愛しているんだな(you love him)」と言う愛にも、友情と恋愛の「境界」がぼやけたものが含まれていてもおかしくない。なお、監督デヴィッド・リーンは『アラビアのロレンス』が同性愛的であるという示唆について次のように述べている。

はい。 もちろん。 全体を通して。 かつて、私たちの中で最も屈強なアラブ人野郎たちと一緒に砂漠に立ったときのことは決して忘れないでしょう。そして突然、「彼は私に色目を使っている!」と思いました。 そして彼はそうしていました! したがって、それは物語全体に浸透しており、確かにローレンスは、完全ではないにしても、非常に同性愛的でした。 ローレンスとオマー(訳注:アリを演じたオマー・シャリフ、ローレンスとアラブ男性たち、当時私たちはとても大胆なことをしていると思っていました。

ロレンスとアリの関係自体以外にも、この映画についてはクィアな要素が指摘されることがある。例えばロレンスの話し方をはじめとしたふるまい、捕らえたトルコの列車の上で踊るような動きを見せるシーンなどにゲイのステレオタイプが指摘される。これらの要素はそもそものロレンスの「境界」を攪乱させようとする試みとマッチしているといえるだろう。

ロレンスの望みは結局のところ果たされず、彼はアラビアを去り故郷に帰っていく。しかしこれほどの大作の主人公に「境界」を攪乱したり超越しようとする性質が付与されていると読み取れるのは重大なことであるし、この作品が古典的名作になっている理由のひとつかもしれない。

 

2023/07/05一部追記

落ち着いているように見えて実はスポ根?『ケイコ 目を澄ませて』


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『ケイコ 目を澄ませて』は終始落ち着いたトーンで語られる映画だ。しかし、中心となる部分は熱血的なものであるように思う。

中盤、主人公ケイコはボクシングを一度休みたいという思いを抱えつつも、それを所属するジムの会長に打ち明けることができない。同居している弟に胸の内を話してみるよう促されるも、話しても解決しないのだと言う。そもそも、ケイコはなぜボクシングをするのかを明確には語らない。結局、ケイコのボクシングを辞めたいというもやもやした気持ちの正体は明らかにはされない。

そんな中、ケイコはジムの会長が自分の試合のビデオを熱心に見ている姿や、共に練習をすることで、再度試合に出てみようと決断し、再び熱心にトレーニングに励むようになる。

この作品は、主人公ケイコを距離感をもって淡々としたトーンで描きながらも、結局のところ主人公が苦難を抱えながら(それは彼女の持つ聴覚障害がボクシングには不利であることかもしれないし、所属ジムが閉鎖間近であること、など複合的で、正体は不明だ)、根性や努力で試合勝利を目指すという展開を持つ。さらにケイコの心情が曖昧な表現にとどまり、周囲の人に頼る描写もない中、明快なのは彼女が「努力して勝利を目指す」ことだというのもあり、この作品にはいわゆるスポ根に近しいものがあるのではないか。

最終的に彼女は試合に敗れるので、このストーリーをスポ根的展開とは呼べないかもしれない。しかし、16mmフィルムで撮られた映像や、歴史あるジムが舞台であることも、落ち着きというよりはスポ根の「古き良き」点を強調しているように見える。

役割から自由になるための個人的な愛『戦場のメリークリスマス』


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以前、クリスマスという要素に沿って『戦場のメリークリスマス』について書いてみたことがあったが、

 

purepuppy.hatenablog.jp

 

再鑑賞したので、纏まらないながらもまた書いてみたいと思う。

 

 

カネモトとデ・ヨンの事件が示すこと

当初は加害者と被害者であったかのように見えた二人だが、カネモトの切腹に殉ずるようにデ・ヨンは舌を噛み切って自殺する。これにより、二人の間に合った感情は同性愛的なものであったと解釈できる。

一方で、この事件が厳しく罰されることにより、この作品世界では同性愛は禁忌であると示され、またその重要性から作品全体に同性愛の含意があることも示される。

 

ハラとロレンスの探り合うような会話

冒頭から、ハラはカネモトを侮辱していることから、同性愛に対し揶揄する態度を持っているように見える。しかし、ロレンスがデ・ヨンを病棟に移動させるよう頼んでくるときの言葉は、揶揄しつつもどこか微妙な含みを持っている。

ハラは「オカマなど"怖くない"」と言う。揶揄や嫌悪の気持ちがあるとすると、「怖くない」という言葉の選び方はやや不自然だ。またハラはロレンスに「イギリス人は全員オカマか」と尋ねる。その後、ロレンスは会話の中で「全員がそうなるわけではない」と話す。このシーンは一見、ハラが同性愛行為・感情を嘲るシーンであるようだ。しかし、彼は「侍は」などを主語にして自身の固定された役割を離れないようにしつつも、個人的にはそのようなセクシュアリティに関心を持ち、ロレンスの真意を探ろうとしているように読み取れるのではないか。ロレンスのそれぞれの返答も、その可能性を完全には否定しないような曖昧なものである。そもそもハラが見ていた夢に出てきたのがマレーネ・ディートリッヒというクィアアイコンであることも示唆的に思える。これらの要素が先の含意を強めている。

 

ヨノイとセリアズは互いに「理解してほしい」と思っている

軍事法廷のシーンでヨノイはセリアズを熱心に見つめたことにはじまり、セリアズに対して熱烈な感情を抱いていることは明らかだ。では、その後はどうか。

ヨノイは切腹の処刑現場に未だ臥せっているセリアズを立ち会わせようとする。これは、冒頭でハラが「切腹を見なければ日本人を見たとはいえない」と言ったことから、セリアズに自分(たち)を理解してほしい、という気持ちの表れであるといえるだろう。

これは、その後命じられた「行」を破るセリアズの行動と対照的である。セリアズは裁判後牢に入れられていた時、日常生活の一場面のようなパントマイムを見せていた。これは彼が反抗的な性質であると捉えられるとも同時に、あらゆる時でも人間としての生活を忘れたくないという信念があるとも捉えられる余地がある。いずれにせよ、行を破る行動はヨノイの先の行動と呼応し、ヨノイに反抗的あるいは日常を忘れない自分を理解してほしい、という気持ちの表れだったといえるだろう。

その後セリアズが捕らえられた場面で、ヨノイとセリアズの会話を黙って見守るハラのアップのカットが入る。これにより、彼は二人の間にある感情を察知したように見える。

 

"絨毯を持って"逃げ出すセリアズとヨノイの対峙

ヨノイの部下であるヤジマは、牢に入れられたセリアズを襲撃しに来る。セリアズはヨノイがくれたという絨毯のお陰でそれを免れる。セリアズはその絨毯にキスし、それを手にロレンスの元に向かう。ロレンスを救出した直後、セリアズはヨノイと遭遇し、ヨノイが日本刀を構える。セリアズは短剣を地面に刺し、戦いを放棄する。ヨノイはなぜ戦わないのかと疑問を呈する一方で、ハラがセリアズを殺そうとするのを阻止する。ロレンスはセリアズに対して「彼(ヨノイ)は君のことが好きなようだな」と言い、セリアズは何も言わず照れるかのように顔を伏せる。

この場面において、衝突を経てもセリアズの方には、ヨノイに対する何らかの好意があるように見える。それはヨノイに貰った絨毯を持ち出すという行動、戦いを放棄する態度と、ロレンスの発言に対する反応に表れている。

一方ヨノイはセリアズが殺されるのを防ぐほどの思いはあるものの、その後の思いは異なっている。切腹の間際に、ヤジマはヨノイに対して「この男(セリアズ)は大尉を破滅させる悪魔です」と呟いて死ぬ。これらによりヨノイの気持ちは変化したようで、ヤジマの葬儀に際して、ヨノイはロレンスに「君の友人(セリアズ)には失望した」と語る。その「失望」の反対の「期待」は、セリアズへの好意であるように思われるが、それが揺らいでいるのである。

 

二人を釈放した翌日のハラとヨノイ

酒に酔ってロレンスとセリアズを釈放した翌日、ハラはヨノイに対し「(ロレンスとセリアズの二人を特別扱いするのは)我々のためにならない」と話す。これはハラ自身もヨノイも、二人への個人的な思いはもうこれ切りにしようという提案のように聞こえる。それは次の二人の行動によって確からしいものになる。

捕虜たちが去った後、ヨノイは飛行場建設に行くか(=ロレンスのいる収容所を離れるか)とハラに尋ねながら恩賜タバコを渡し、ハラは提案を了解しタバコを受け取る。恩賜タバコがアップになり軍人という役割を象徴するとともに、この場面は、バタビアではヨノイが勧められたタバコを断っていた場面との対比でもある。タバコを断った直後の軍事法廷で、ヨノイはセリアズを救っていた。加えて、ヨノイ自らタバコを吸うことで、より一層決意を固めていることが示される。

 

セリアズからヨノイへのキス

固く決意をしたヨノイは軍人としての役割に縛り付けられ、その達成のために何としてでも情報を捕虜長ヒックスリから聞き出そうとし、最終的には日本刀で彼を斬ると宣言する。そこでセリアズが歩み出て、ヨノイの両頬にキスをする。

この流れの中では、セリアズの行為は、ヨノイに個人的な感情を思い出させることで、彼を役割から自由にし一個人であることを思い出させる愛の行動だといえる。それはセリアズの、優等生という役割にとらわれ、(幼い頃は実現できていた)自分が犠牲を被っても弟を助けたいという個人的思いを捨てた過去から自分自身を救い出す行動でもある。

この行動に対し、ヨノイはセリアズの髪を一房刈り(それを故郷に持っていくようロレンスに頼む)、敬礼する、という役割から離れた個人的な愛の行動によって応えるのである。

 

ハラとロレンスの再会

セリアズの事件後、ハラはロレンスと別れの言葉を交わさず、飛行場建設のために収容所を去る。だが結局、ハラが処刑される前日に二人は再会する。この再会は、ロレンスが語るように、先のセリアズの「種を蒔く」行動が間接的にもたらした。ロレンスは変わらず一個人としての思いを語り、ハラは酒に酔い続ける(=二人を釈放した時のような、個人としての自分で居続ける)と言う。それをさらに強固にするかのように、ハラがロレンスに「メリークリスマス」という言葉をかけて物語は結末を迎える。これはハラとロレンスの絆を改めて示すとともに、物語の中心となった4人が皆役割から自由な一個人になったということを示しているのだろう。

 

参考文献:

戦争と「同志」叙事 : 大島渚『戦場のメリークリスマス』から 明毓屛『再見,東京』へ | CiNii Research

紀大偉は如何に大島渚を受容したか : 儀式を中心として | CiNii Research

「完璧」ではないことの意味『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』


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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは、スーパーヒーロー映画でありながら、時に「悪趣味」と言われる描写を含んだシリーズである。その三作目である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』は、「完璧」を掲げる悪役と、主人公であるガーディアンズの面々を対決させることにより、これまでの作風をはじめ『ガーディアンズ』シリーズ自身そのものを肯定しようとする(内向きともいえる)映画だ。

この映画の悪役であるハイ・エボリューショナリーの理想の完璧な種族とは、ロケットのようなひらめき・頭脳があり、穏やかな性格で、ずっと走り続けても汗ひとつかかない身体を持つ…などという種族らしい。そんな狭い理想を持つ彼は、ロケットにより「ありのままを否定」するのだと評される。
ハイ・エボリューショナリーに対峙するガーディアンズの面々はそのような特徴を持っていない。そんな中、どの登場人物も今までの作品からの成長を見せ、ロケットを救うことにはじまり、仲間同士、お互いのために行動する。「完璧」像から程遠いキャラクターたちが互いを思いやるのは素晴らしいことだと念入りに描かれている。

ガーディアンズの面々は確かに仲間思いである。しかし、仲間以外の人々に対しては倫理的にグレーな行動をとる。それは、例えば今作のピーター・クイルの行動に分かりやすく表れている。クイルはロケットを助けるパスワードを得るために、その情報を持っている女性に嘘をついて利用することをためらわない。また、ついにそのパスワードを持っている科学者を見つけた時には、殺さずとも情報を得られたかもしれないのにも関わらず、クイルはその科学者を殺害する。他のガーディアンズの面々も、同様な倫理的にグレーな行いを見せる。彼らのグレーな行いは、物語内の善悪の問題にとどまらず、「悪趣味」とも呼ばれる『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの作風、ひいてはジェームズ・ガン監督の作風そのものとイコールになっている。

しかしながら、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは大作映画として「真っ当さ」を備えてもいる。今作でいえば、ロケットの過去については動物の虐待に反対する描写だと読み取れるだろう。そのロケットの命を助けようとする行動、そして仲間思いの行動は「真っ当さ」とイコールになる。

このように、映画全体の「悪趣味」と「真っ当さ」の奇妙に同居する様子が、仲間思いの行動を見せながらも仲間以外に対する行動は倫理的にグレー、というガーディアンズの面々の性質に重なる。それには居心地が悪く感じられることもある。しかし規模を縮めて考えてみれば、巷に溢れていることかもしれない。身内には優しい人が、他人には不当な行いをするのはよくあることだ。つまり、この映画が言おうとしているのは、(スーパーヒーロー映画としてはあまりに夢が無さすぎるきらいがあるが)そんな微妙な姿が人間の「ありのまま」の姿ということではないか。

狭い理想を持ち、「ありのままを否定」する悪役と、ガーディアンズが戦って勝利することにより、人間の「ありのまま」を象徴した映画としての『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ自身は肯定されるのだ。