ながいひとりごと

主に映画の感想を書きます。

『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』のファンフィクションらしさ


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『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』のドラマシリーズは、強いファンフィクション(この場合、ファンが芸能人を題材に書く小説)らしさを持っている。その「らしさ」とは、バンドメンバー間の恋愛がひたすら物語の推進力となっている点である。

ここで言う「ファンフィクションらしさ」というのは、実在のバンドに似ているという事ではない。確かに、原作は実在のバンドであるフリートウッド・マックに触発されて執筆された。しかし、この作品のストーリーと、フリートウッド・マックの実際に辿った歴史はあまりにも異なっている。ストーリーで実在のバンドを再現することが作品の目的ではないことは明らかだ。

ロックバンドを題材にしたファンフィクションは、バンドメンバー間の恋愛(事実に基づかないことも多い)を中心として描いたものが多い。『デイジー~』において、デイジーとビリーが恋に落ちる過程がそのままバンドの活動の中心となる。まず二人は共にアルバムのための楽曲を制作する中で惹かれ合う。ビリーには妻子がいるため、その想いをデイジーもビリーもそれぞれ否定しようとする。しかし想いは消えず、一緒にツアーに出ることで再び親密になる。アルバムの楽曲はどれもお互いへの想いを歌ったもので、ツアーについても二人の関係の緊張感ばかりが強調される。

さらに、『デイジー〜』において、ラスト3話のツアーの中でバンド内の恋愛関係がややこしく変化していく様は、ファンフィクションの「ツアーフィク」と呼ばれる、ライブツアーの日々を舞台とするお決まりのパターンのようである。ツアー中という場面設定は、メンバーが非常に近い距離で過ごすことから、「対人的葛藤、不安、性的な自己発見、または抱きしめ合うための理想的な設定を提供する」のだ。

そもそも、ファンフィクションの書き手たちはなぜ恋愛を見出すためにロックバンドに注目するのか。この理由について、あるファンコンベンションで語られたことがある。

イメージは、すべての資質を用いて、何かを創作するために協力する男性たちのイメージでした。…(中略)…私たちはそれをセクシーだと思うべきではありませんか? これは、バンドあるいはバンド内の親密なカップルを構築する一瞬の一致、長年の練習、そしてインスピレーションの瞬間を強調しています。私たちの想像の中のキャラクターとしての彼らは、それをセクシーだと思うべきではありませんか?

この発言は『デイジー~』において、バンドの音楽に関わる全てがバンド内の恋愛に収束していく有様を表現したようなものだ。

このドラマの物語はあくまで内輪の話に留まり、観客・ファンの存在感は薄い。しかし一方で、ロックバンドのファン(ファンフィクションを書くタイプに限る)が普遍的に求める物語を如実に描いているのだ。……ただ、それなら自分の好きなバンドのファンフィクションを読んだ方が楽しいのかもしれないが……

情報的にはあまり新しくないが…『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』

 


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デヴィッド・ボウイドキュメンタリー映画だが、彼を題材とした他のドキュメンタリー(例えばBBCによる『デビッド・ボウイ 5つの時代』など)と異なり、語りはすべてボウイ本人の言葉のみで構成されている。編集は、他の影響も勿論考えられるが、そもそも映画中にも一部流れる『Hallo Spaceboy』のMVの影響を受けているように見える。

形式は新しいが、情報そのものに新しさがある作品ではなく、他のボウイのドキュメンタリーや記事と比較して新しい解釈が提示されるところはあまりない。しかし、まとまった形で提示されることの少ない視点を提示している部分が少しあり、それらが興味深かった。

例えばアルバム『Station to Station』は人気投票で上位になることも多いなど、高く評価されている。しかしそれが制作されたアメリカ滞在時があまり好ましくない経験として描かれている。確かに彼が薬物依存に陥っていたことはしばしば他の作品でも語られてきた。しかし、この映画では、音楽的にどうだったかよりも大事なのは、『Future Legend』や『Cracked Actor』の歌詞が象徴するものに本人が実際に飲み込まれてしまった状況だ、と示される。

アルバム『Let's Dance』の制作動機については、いきなり方向転換したのではなく、それまでがあってこそのものだと表現されている。ボウイが年齢を重ねて分かり易い作品、あるいは明るい作品を作りたくなったと語る中、ボウイが一人でアジアを旅する映像(ドキュメンタリー『Ricochet』からの引用)が流れる。この映像により、それまでの思慮に富んだ作品を作っていた彼と地続きであることが分かるのだ。『Let's Dance』に合わせて70年代の踊る姿が流れるのは、それを殊更に強調しているようにも見えた。

90年代以降についても本人の発言がある限り見てみたかった。尺の問題もあるがその時期についての、”過去を振り返って”という形の本人の発言が存在していないから…という(悲しい)理由も考えられる。

 

2023/04/03 一部編集

クリスマス映画の要素が際立たせるもの『戦場のメリークリスマス』

戦場のメリークリスマス』について、ここでは、この映画の日本語・英語タイトルどちらにも「クリスマス/Christmas」という語が含まれることに注目したい。これはハラの重要なセリフからであるが、それだけでなく、この映画にはクリスマス映画、クリスマス・スピリットの要素があることも示している。原作をふまえると、クリスマス=キリスト教的要素は存在して当然と思われるのだが、映画化にあたって大きな変更がされているにも関わらず、クリスマスを感じさせるというのが興味深いところだ。この映画はクリスマス・スピリットが成就する映画だ…とは言い難いけれども。

 

クリスマス・スピリットが何かとは説明しづらいが、家族との繋がり、赦し合い、人との繋がりを寿ぐことなどが挙げられる。クリスマスを題材にした作品・映画がそれを広めたという面もある。なので、そのはしりである『クリスマス・キャロル』をイメージすれば分かり易い。ここでは、「贈り物をすること」や「人との繋がり」という部分に着目したい。

戦場のメリークリスマス』では『クリスマス・キャロル』をはじめとした作品のような超自然的なことは起こらないし、団欒もない。しかし「贈り物=人に何か与えるような行いをすること」や「人との繋がり」という要素がある。 中心となるヨノイ、セリアズ、ハラ、ロレンスが社会的抑圧や集団としてのしがらみが存在する中、それらとは異なった個人として、相手のためにしたいと望んだことを行う。ヨノイは裁判で出会ったセリアズの命を助けたくなり処刑するのではなく捕虜とする。セリアズはそのヨノイが個人としての思いを抑えつけようとし必要以上に集団の一員としての役割を果たそうとするのを、ヨノイへのキスという個人的な愛の行動で以って止める。ハラはロレンスを助けたいという個人的思いからロレンスとセリアズを釈放する。ロレンスは映画を通し、日本人たちの思いを理解しようとし、そして自分たちの思いを伝えようとする。何より、セリアズがヨノイの頬にキスするという行動は、ヨノイ、ハラ、ロレンスの3人に「種を蒔く」と表現されるポジティブなものをもたらした。

それらの要素が幸せな結末として成就することはないという展開が、この映画を「クリスマス映画」とは呼びづらい理由なのだが、それは戦時中を描いていることを際立たせてもいる。幸せな結末を連想させる要素がありながら、そうはならないことで観客に「平和な場で彼らが出会っていたら違った結末になっただろう」と強く思わせるのだ。そして、その状況を超えようとする個人としての想いが際立つ。

 

この映画を近年のクリスマス映画と比較すると、より個性が分かりやすくなる。

ラスト・クリスマス』(2019)では、異なる背景を持つ人々のつながりや家族内でも育ってきた環境が違うことの受容が描かれる。このように文化的背景の違いを超えた融和を目指すという話も、現在ではクリスマス映画の一要素なのだ。

『ハピエスト・ホリデー 私たちのカミングアウト』(2020)は主人公のひとりハーパーが、家族に対しては同性愛者であることをカミングアウトしていないことから始まる。ハーパーが恋人アビーにキスしたのを目撃され、同性愛者であることが明らかになるのをきっかけに、選挙のための理想的な家族像を目指し抑圧的だったハーパーの家族が和解した。これは、(アウティングという問題ある方法を含むものの)個人的な愛が「選挙のための家族像」という立場・しがらみを超えるきっかけになったといえる。

これらを踏まえると、異なる文化的背景を持つ人々の邂逅と、彼らの立場を個人的な思いが超えようとする様をクリスマス映画の要素を取り入れつつ描いた『戦場のメリークリスマス』は先の時代を予見していたといえるのではないだろうか。分断が顕著である今だからこそ、個人的な感情がそれを超えようとすることによる「人との繋がり」がより鮮やかに見えてくる。

 

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同作品について書いた他の記事:

 

purepuppy.hatenablog.jp

 

2人が見つめ合わない時『ザ・バットマン』

ザ・バットマン』は主人公ブルース・ウェインバットマン活動の二年目の姿を描く映画作品だ。バットマンが連続殺人犯のリドラーを追うにつれ、街の裏側に存在していた陰謀が明らかになる。その中で、バットマンは重要な手がかりを持つ女性セリーナ・カイルに出会う。

セリーナ・カイルは、他映画作品やコミックにも登場する人気キャラクター、キャットウーマンの本名だ。

バットマンとセリーナは、恋愛といえるようないえないような、微妙な関係になる。ここでは、”片方だけが相手のことを見ている”部分に着目して、二人の関係が映像的に興味深く描かれていることを見ていきたい。

なお、以下では主人公がバットマンの姿をしているときはバットマンと表記し、素顔の状態であるときはブルースと表記する。

 

・ブルースが双眼鏡を使ってセリーナの部屋での様子を覗き見る

このシーンは冒頭でリドラーが市長宅を覗き見るシーンと対になっている。リドラーとブルースの共通点を強調し、ブルースが捜査のこととなれば見境がないことを示している。よって、ここではセリーナを疑い邪ともいえる視線を一方的に向けている。つまり、ブルースからセリーナへの感情は一方的で、しかも疑いに満ちている。

 

バットマンとセリーナがコンタクトを通して視界を共有する

セリーナがアイスバーグラウンジでの様子を探るにあたり、バットマンは彼女にカメラ機能付きのコンタクトレンズを着けさせる。

ここでブルースはセリーナと視界を共有することで、彼女が男性たちから向けられる視線を理解する。その視線があまり好ましいものではないと理解すると同時に、その強烈さゆえか、セリーナとファルコーネの間に親密な関係があるのではないかという新たな疑いにつながる。

 

・ブルースがセリーナの映像を繰り返し見る→市長の葬儀場にセリーナがいると勘違いする

ブルースは地下で鏡に映ったセリーナの映像を繰り返し見る。これは鏡像の映像であり、実像からは遠いものだといえる。これを繰り返し見るという行為はブルースの思いの強さを表すと同時に、葬儀場のシーンで実際には存在しないところに彼女の姿を見てしまうことにもつながっていく。

 

・セリーナがコンタクトに自らを映しブルースに呼びかける

セリーナは先のカメラ付きのコンタクトに自分の姿を映し、ブルースに呼びかける。このシーンはブルースにとっては見つめあっている感覚をもたらす。セリーナには彼の姿は見えないものの、ブルースが鏡像の映像を見ていたシーンよりも二人の距離が近づいたことを象徴している。

 

バットマンが、バイクのミラー越しにセリーナを見る

ラストシーン、去っていくセリーナの後ろ姿をバットマンが見る。これも鏡像であるが、ここではコンタクトの映像と異なり、実際の姿を見ている。その点では、最初の窃視のシーンと呼応している。加えて、セリーナもバットマンを見ている可能性があるというのが異なるところだ。しかしながら、セリーナの視点が表現されることはない。これらによって、二人はお互いを認め合うものの結ばれる関係ではないことを示している。

物語と人間の相思相愛、そして適度な距離感『アラビアンナイト 三千年の願い』

物語と人間は相思相愛だという映画だ。

ジンは4つの物語を時系列順に語るが、そこには様々な女性が登場する。もちろん男性もだが、もう1人の主人公アリシアは女性であることを踏まえると、女性の物語であることに注目させられる。二人の王子が出てくる話は関係ないかのように思われるが、タイトルには二人の「母」が示されているし、ジンを発見するのは砂糖姫だ。

アリシアと、ジンの語る物語との繋がりは最後の物語で明確になる。最後の物語ではゼフィールという女性が登場する。彼女はアリシアと似た学究肌で、仕草まで共通している。ジンが彼女を離したくないあまりに、ゼフィールは自由になれなかった。アリシアはまるで自由になった彼女の姿のようだ。

そして、そもそも物語とは主人公が何かしらを求めることで―――願いや欲望があることによって成り立つものだ。語り、そして願いを叶えようとするジンは、物語という存在そのものなのではないか?

物語論の学者であるアリシアは幼い頃イマジナリーフレンドがいた。それほど物語を愛しており、そして辛い時もその存在に救われたと話す。自分は満ち足りているのもあって願いはないと言うし、冒頭の講演では物語は科学に取って代わられる、と言ってもいたが実は物語への愛がある。ジンの語る女性たちとのつながり、そして願いを叶えたいというジンの(つまり、物語の)思いを感じたアリシアは、ジンにあなたを愛させてそして自分を愛してと願うのだ。物語の方も自分を愛してくれるという、フィクションを愛する人からしたら嬉しすぎる話だ。

そう考えてみると、アリシアがジンの入ったガラスの瓶(周りの人からすると何の変哲もない)をX線検査に通すまいと奮闘する様子は、コレクショングッズを大切にするファンみたいだ。 偏見に満ちた隣人たちの言葉に憤りやどうにもならなさを感じても、ジン=物語が癒してくれる。さらには物語を持っていくことで=物語を通じて、分かり合えなさそうなその隣人たちとも歩み寄れる。物語は仕事にもついてきて、居ない時でも四六時中その存在を感じ取れる。こうしてアリシアは愛する物語にどっぷり浸った生活を送る。

しかし物語に四六時中どっぷり浸かっていることはできないのだということも示される。ロンドン=せわしない現実にジンは肌が合わず、ついにはある日抜け殻のようになってしまうところだ。

こうしてアリシアは愛する物語との適度な距離感を見つける。ジンはずっとアリシアのそばにいるわけではないが、時々向こうからやって来てくれる。これは常に浸っていられなくとも物語はやはり人間にとって必要だし物語が「そばにいてくれる」ということを表している。ずっと浸ってはいられない、けれどなくなったりはしないという距離感には絶妙なバランス感覚や現実感がある。それでもなお、物語を愛する人々にとっては、やはり夢みたいなハッピーエンドだ。

キスをしないのは成長の証?『Batman: The Knight』

(引用等は拙訳)

 

Batman: The Knight (2022-) #2 (English Edition)

Batman: The Knight (2022-) #2 (English Edition)

Batman: The Knight (2022-) #5 (English Edition)

Batman: The Knight (2022-) #5 (English Edition)


Batman: The Knight』(『バットマン:ザ・ナイト』)の#5が発表された当時、ブルース・ウェイン両性愛者なのではないかという話題が起こった。

バットマン:ザ・ナイト』はバットマンとなる前、世界各地を回って修行中のブルース・ウェインを描くコミック作品だ。話題の元となったシーンでは、ブルースと、修行を共にする"アントン"という男性が見つめあい、キスする直前であるように見える。この先のイシューで、アントンは将来ゴーストメイカーとなるミンコア・カーンであると判明するのだが、この時点でも読者にとっては彼がゴーストメイカーであると想像するのはたやすい。彼が両性愛者であることも話題を盛り上げる一因だったといえるだろう。

しかしながら、このシリーズでブルースが両性愛者であるとは明言されなかった。このシーンはクィアベイティングだったのだろうか?ここでは、#2と#5を主に比較することにより、これはブルースの成長を示すシーンとして描くことで、単なるクィアベイティングのシーンとなることを避けている…ということを考えてみたい。

#2の舞台はパリで、ブルースは泥棒のルーシー・チェッソンに弟子入りする。彼女は明らかにキャットウーマンを思わせる女性だ。修行のさなか、ブルースはルーシーと共にパリの富豪の邸宅に侵入し、宝石箱を盗み出そうとする。しかし二人は警察に見つかり、ブルースは脚を撃たれながら、何とか二人とも逃げきる。隠れ家に戻り、ブルースはルーシーに手当をしてもらいながら、撃たれた時に考えることができたのは「箱を守ること、ミッションのことだけだった。その箱が欲しくもないのに」と話し、「怖い、自分が何になるのかが怖い」と打ち明ける。そして慰めてくれたルーシーに勢いに任せてキスする。ブルースはルーシーに行動を詫びたのち、心の中で「くそっ、ブルース、お前は今日本当に順調だな」と皮肉っぽくつぶやく。

それから時を経た#5では、ブルースはかつてスパイだったエイブリー・オブロンスキーに弟子入りしている。この時は別の場所で出会ったアントンも一緒に行動している。オブロンスキーに命じられ、ブルースとアントンはモスクワのアメリカ大使館で開かれるパーティに紛れ込み、とある本を盗み出そうとする。ブルースとアントンは競い合う形でミッション達成を試み、アントンが本を手にする。しかし負けん気を起こしたブルースの仕掛けた作戦が裏目に出て、二人は見つかってしまう。ブルースが追っ手を撃退し、二人は逃げる。その後ブルースは、アントンに対し、自分は「足らない所ばかり」で、「失敗してこっそりとゴッサムシティに帰ることになるのではないかと心配」だと打ち明ける。アントンはブルースを慰めて、さらに「自分は世界に一人きりだと思っていた。でも君は…」と言い、二人はうっとりした表情で見つめあう。しかし、すぐにオブロンスキーが二人の話を遮り、さらにその後、ブルースは見つめあっている隙に例の本をアントンから気づかれないように盗み取っていたと判明する。

このように、二つのシーンの状況は似通っている。しかしブルースは明らかに変化・成長している。彼は追っ手を撃退し無傷で逃げ出せるほどに戦闘技術を磨いている。心配事についても、自分がミッションに夢中になっていることや、何者かになることはもう当然で、恐れているのは失敗することだ。アントンにロマンチックに見つめられたって、本を盗み取る隙を逃さないほど抜け目ない人物になっているのだ。

このような流れの中で見れば、話題のシーンはブルースがバットマンにまた一歩近づいたという成長を見て取ることのできるシーンだ。

しかし、引っかかってしまったアントンの方はどうだっただろうか。実は、大使館へ潜入している最中、アントンはターゲットの男性を誘惑して狙いの本を手に入れようとしていた。二つのシーンを比べると、態度からして、ブルースと見つめ合うシーンでの彼の意図は明らかだ。

ブルースが見つめあった瞬間、何を思っていたのかは不明だ。このシリーズではブルースのモノローグが多用されているが、#5では追っ手から逃れて以降、ブルースの心の中を示すモノローグがない。もしかしたら、ブルースはアントンの事をあの瞬間好ましく思ったのかもしれない。

今後ブルース・ウェイン両性愛者あるいはバイキュリアスな人物として描かれることはあるだろうか?もし将来そのような事があれば、このシーンも重要な歴史として取り上げられるのだろう。それまでの間は、これはブルースの成長を描くあるひとつのシーンにすぎない。

 

 

古い西部劇ヒーローみたいな『ブラック・アダム』

劇中、テレビに『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(The Good, The Bad, and The Ugly)が映り、のちにはその決闘のパロディシーンもあるだけでなく、全編を通しブラックアダムは西部劇のヒーローのように描かれている。自分のやり方を曲げない、頑なでクールな感じというか。一方で昔気質ともいえる。

テス・アダムのやり方は、たとえ悪人でも命は大事にというジャスティソサエティのやり方とは全く違う。最初は攻撃してくるものなら何でも、次第に仲間意識を持った人々を守るためなら、生死については無視して攻撃を加える。最終的にはジャスティソサエティの面々と認め合うものの、映画全体としては、カーンダックの人々が求めてたのはブラックアダムだったし、彼のやり方で上手くいったね、という風にまとまっている。 この話の言いたいことは「側から見て古くて乱暴なやり方をしてる人でも、いろんな事情があるし、その人が誰か他の人を守ろうという利他的な気持ちを持ってる人、いわゆる良い人なら、外野がそのやり方・手段を矯正する必要はない」ということだと思う。そして「自分たちのことは自分で決めさせろ」というと聞こえはいいが、閉鎖的で融和は目指していない。この映画全体の頑なさは最近のヒーロー映画ではあまり見かけないものだ。

ただ、そういう閉鎖的なテーマをそのまま提示するのは微妙だったのか、ジャスティソサエティが象徴する、多様なメンバーで協力しあう包摂性なども持ち上げようとしていて、その結果ゴチャゴチャとした映画になっていた。