ながいひとりごと

主に映画の感想を書きます。

物語と人間の相思相愛、そして適度な距離感『アラビアンナイト 三千年の願い』

物語と人間は相思相愛だという映画だ。

ジンは4つの物語を時系列順に語るが、そこには様々な女性が登場する。もちろん男性もだが、もう1人の主人公アリシアは女性であることを踏まえると、女性の物語であることに注目させられる。二人の王子が出てくる話は関係ないかのように思われるが、タイトルには二人の「母」が示されているし、ジンを発見するのは砂糖姫だ。

アリシアと、ジンの語る物語との繋がりは最後の物語で明確になる。最後の物語ではゼフィールという女性が登場する。彼女はアリシアと似た学究肌で、仕草まで共通している。ジンが彼女を離したくないあまりに、ゼフィールは自由になれなかった。アリシアはまるで自由になった彼女の姿のようだ。

そして、そもそも物語とは主人公が何かしらを求めることで―――願いや欲望があることによって成り立つものだ。語り、そして願いを叶えようとするジンは、物語という存在そのものなのではないか?

物語論の学者であるアリシアは幼い頃イマジナリーフレンドがいた。それほど物語を愛しており、そして辛い時もその存在に救われたと話す。自分は満ち足りているのもあって願いはないと言うし、冒頭の講演では物語は科学に取って代わられる、と言ってもいたが実は物語への愛がある。ジンの語る女性たちとのつながり、そして願いを叶えたいというジンの(つまり、物語の)思いを感じたアリシアは、ジンにあなたを愛させてそして自分を愛してと願うのだ。物語の方も自分を愛してくれるという、フィクションを愛する人からしたら嬉しすぎる話だ。

そう考えてみると、アリシアがジンの入ったガラスの瓶(周りの人からすると何の変哲もない)をX線検査に通すまいと奮闘する様子は、コレクショングッズを大切にするファンみたいだ。 偏見に満ちた隣人たちの言葉に憤りやどうにもならなさを感じても、ジン=物語が癒してくれる。さらには物語を持っていくことで=物語を通じて、分かり合えなさそうなその隣人たちとも歩み寄れる。物語は仕事にもついてきて、居ない時でも四六時中その存在を感じ取れる。こうしてアリシアは愛する物語にどっぷり浸った生活を送る。

しかし物語に四六時中どっぷり浸かっていることはできないのだということも示される。ロンドン=せわしない現実にジンは肌が合わず、ついにはある日抜け殻のようになってしまうところだ。

こうしてアリシアは愛する物語との適度な距離感を見つける。ジンはずっとアリシアのそばにいるわけではないが、時々向こうからやって来てくれる。これは常に浸っていられなくとも物語はやはり人間にとって必要だし物語が「そばにいてくれる」ということを表している。ずっと浸ってはいられない、けれどなくなったりはしないという距離感には絶妙なバランス感覚や現実感がある。それでもなお、物語を愛する人々にとっては、やはり夢みたいなハッピーエンドだ。