ながいひとりごと

主に映画の感想を書きます。

「完璧」ではないことの意味『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』


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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは、スーパーヒーロー映画でありながら、時に「悪趣味」と言われる描写を含んだシリーズである。その三作目である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー Vol.3』は、「完璧」を掲げる悪役と、主人公であるガーディアンズの面々を対決させることにより、これまでの作風をはじめ『ガーディアンズ』シリーズ自身そのものを肯定しようとする(内向きともいえる)映画だ。

この映画の悪役であるハイ・エボリューショナリーの理想の完璧な種族とは、ロケットのようなひらめき・頭脳があり、穏やかな性格で、ずっと走り続けても汗ひとつかかない身体を持つ…などという種族らしい。そんな狭い理想を持つ彼は、ロケットにより「ありのままを否定」するのだと評される。
ハイ・エボリューショナリーに対峙するガーディアンズの面々はそのような特徴を持っていない。そんな中、どの登場人物も今までの作品からの成長を見せ、ロケットを救うことにはじまり、仲間同士、お互いのために行動する。「完璧」像から程遠いキャラクターたちが互いを思いやるのは素晴らしいことだと念入りに描かれている。

ガーディアンズの面々は確かに仲間思いである。しかし、仲間以外の人々に対しては倫理的にグレーな行動をとる。それは、例えば今作のピーター・クイルの行動に分かりやすく表れている。クイルはロケットを助けるパスワードを得るために、その情報を持っている女性に嘘をついて利用することをためらわない。また、ついにそのパスワードを持っている科学者を見つけた時には、殺さずとも情報を得られたかもしれないのにも関わらず、クイルはその科学者を殺害する。他のガーディアンズの面々も、同様な倫理的にグレーな行いを見せる。彼らのグレーな行いは、物語内の善悪の問題にとどまらず、「悪趣味」とも呼ばれる『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの作風、ひいてはジェームズ・ガン監督の作風そのものとイコールになっている。

しかしながら、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは大作映画として「真っ当さ」を備えてもいる。今作でいえば、ロケットの過去については動物の虐待に反対する描写だと読み取れるだろう。そのロケットの命を助けようとする行動、そして仲間思いの行動は「真っ当さ」とイコールになる。

このように、映画全体の「悪趣味」と「真っ当さ」の奇妙に同居する様子が、仲間思いの行動を見せながらも仲間以外に対する行動は倫理的にグレー、というガーディアンズの面々の性質に重なる。それには居心地が悪く感じられることもある。しかし規模を縮めて考えてみれば、巷に溢れていることかもしれない。身内には優しい人が、他人には不当な行いをするのはよくあることだ。つまり、この映画が言おうとしているのは、(スーパーヒーロー映画としてはあまりに夢が無さすぎるきらいがあるが)そんな微妙な姿が人間の「ありのまま」の姿ということではないか。

狭い理想を持ち、「ありのままを否定」する悪役と、ガーディアンズが戦って勝利することにより、人間の「ありのまま」を象徴した映画としての『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ自身は肯定されるのだ。